福岡県糸島市 ミツル醤油醸造元 城慶典 インタビュー 前半
失ったものを取り戻すという行動は、始めからやることより難しい、精神的なタフさや周囲への理解を得るコミュニケーションスキルが必要となるに違いない・・・いったいどんな困難な道のりが?
勢い余ってりきみぎみに投げかける質問を、ゆる〜りする〜りとかわす城慶典さん、あまりの自然体にすっかり和んだ雰囲気となったロングインタビュー。
家業である醤油屋が高度成長期に手放した醤油造りを、自身のあふれんばかりの想いと工夫のDIY精神で取り戻した若き醤油職人は、思わず目の前で手を合わせてしまいそうになるほどの仏の微笑みが絶えない、心優しくたくましい、愛すべき若人でした。
今回は、糸島のご近所さま繋がりということで、「100人の母たち」「9」で知られるフォトグラファー亀山ののこさんが直々に撮影をしてくださる機会に恵まれました。
日本人の食卓に欠かせない醤油とは何か?失ってしまった一からの醤油造りを復活させるまでのストーリーは究極のエディブル・エデュケーションとしてこれからの人たちに届けたいメッセージです。
前半後半の二回に渡ってお届けします!
■ あ、最初からやっていないんだ
━ 復活させるということを、まずは思わないじゃないですか?一回辞めたものを取り戻そうとはそうそう考えないと思うのですが、城さんはそう思った、そのきっかけは何ですか?
城 : そうですね、単純に、高校生の時に自分の所の仕組み、醤油を他から仕入れてやっているというのを知って。 複雑ですよね・・・今は別棟ですけれど、前は醤油屋を営んでいる母屋そのものが家で、毎日お客様が来るところが家で、その家が店だったので、それなりに自分の家の家業に誇りを持っていて、みんながやっていることが好きで、醤油も好きだしという思いがあったけれど、そういう仕組みを知ったら、ちょっと微妙だな・・・、ちょっと寂しい思い、あ、最初からやっていないんだ、という感じでした。
━ 「仕組み」とはどのようなことですか?
城 : 昭和39年に近代化促進法が出来て、醤油が指定業種になりました。非効率だったのでしょう。日常的に必要なものだけれど、作るのに時間と手間暇がかかるものだったから、大きなメーカーさんはどんどん大規模化し、どんどんコストも下げていったけれど、その他ほとんどは家内工業的なメーカーさんは時間をかけてやっていたからその格差も顕著に出ていたのではないでしょうか。
━ 非効率だけど日本人の食生活に欠かせないものだった。そこで大手のメーカーさんは機械化して大量生産を図ったわけですね。
城 : 醤油ってその当時はまだまだ出荷が増えていた、働き手もどんどん増えて、どんどん造ろうと促進をした。なるべく安いものを早い期間で出していくことが、お客様のためだと考えたのだと思います。
━ 仕組みとして大手が機械化した時に、家内工業的なメーカーさんは醤油を一から造ることを手放して出来た醤油を仕入れることへ切り替えたわけですが、では、その、仕入れる醤油は誰がどこで造っているのですか?
城 : 福岡の場合は組合で、(醤油の業界団体)組合が工場を持って造っています。近代化促進法で、国が助成して自分たちも出資したりして工場を作ったのです。そこでは人も多く雇用していて、福岡は太宰府にあって、すごく立派な工場です。
━ 仕入れて加工して販売するという方法に切り替えていった醤油屋さんが当時多かったのには、やはり、手間暇と時間がかかる醤油造りのご苦労が関わっていたのでしょうか。
城 : そういうことでしょうね。その当時生きていないからわからないけれど、今までローテクな作り方でやってきて、機械で作ることになって、ああ、みんなでそっちに行かなきゃ、という、そういうノリだったのではないでしょうか?
━ 高度経済成長期という時に、みんなで便利で早くて、を求めたことの一環でしょう。選択した時には悪意もなかっただろうし、そういうことではなかったんだろうな・・・というのはわかります。
家族経営でのご苦労があって、多くの醤油屋さんが自分たちで造ることを手放していったわけですが、城さんはそれに気づいてちょっと寂しい、と、思われた、ということは、城さんは醤油造りの知識はある程度あったのですか?
城 : いや、全然なかったですね。ちっちゃい頃から夏休みとか冬休みとか、夏のお盆とか年末が今よりもっともっと忙しくて。だけど瓶詰めを手伝いながらも、不思議と「醤油って、どうやって造るんだろう」とか、あまり考えたことがなくて。
醤油の組合から醤油が来るのが月に一度、大きなタンクローリーで運ばれてきて、うちのタンクに醤油を入れていくわけですけれど、幼少期からそういうことは見ていて「なんだろう?このトラックは」くらいに思っていたことだったのですが。それで、高校生の時に現実を知って・・・。
━ 知った、といっても、醤油造りの工程を知らないかぎり、それに疑問も持たないように思うのですが。
城 : ああ。でも、それは多分、親からざっくりと聞いていたのかな。
高校は農業に興味があったわけではなく農業高校だったのですが、二年生の時に職場体験という機会があってその時に太宰府の醤油工場に行って、そこで、醤油造りを初めて見たわけです。
醤油はこうやってできるんだ、ということを知って、すごいな、と思った。規模も大きかったですけれど、そもそも、すべてが初めてで、蒸した大豆の匂いとか、麹ってこういうものなんだ、とか。
すべてが初めてでした。
■ 家業が好き。けれど、やるとしたら自分は最初っから造ったものを置きたい。
城 : もともと、醤油をやる、家業を継ぐということには全く抵抗がなくて、むしろやりたいと思っていました。長男ですが親に「後を継げ」と言われたことはないのですけれど、自分では家業が好きで。
━ 家の中でやっているお商売だから、ということが関わっているのではないでしょうか?会社員で、外に出て何をやっているのかわからなかったらそこまで強く思わないのかもしれないけれど、家の中に生業が息づいているというか、お醤油造りを、たとえ一からやってはいないとしても、何から何まで見てるからそう思ったのでしょうね。
城 : そうですね、そういうのはずっとあって、高校の時に「自分の所で造っていない」っていうのを知って、知った時は、まぁ、醤油屋をやりたいけれど、やるとしたら自分は最初っから造ったものを置きたいな、という気持ちはありました。
━ その時点でそう思うということを親御さんにお伝えしたのですか?
城 : 言わなかったですね。そういう言い方してもいい気持ちがしないと思うし。大学入る前くらいに言いました。
━ 城さんもすごいけれど、「もう一回やってみろ」ということになった親御さんもすごいなと思うのですよね。
■ 恩師の支えもあり、農大に入学し・・・
城 : 東京農業大学の中に醸造科というのがあるというのを親から聞いていて、でも、推薦で大学に行かなくちゃいけないというのも知りました。高校二年の時に野球部の監督から「お前のところは醤油屋やけん、農大に行ったらいいじゃないか」と勧められて、ここからオール5全部とったら行けるから、と言われ、急に勉強し始めました。そこからずっとオール5だったことと、野球部の担任の先生である恩師のお陰で推薦がとれて農業大学の醸造科に行きました。
━ 方向が定まると、ガッと頑張れるタイプなんでしょうね。大学はどんなところでしたか?
城 : 醸造科は、微生物とか日本酒のこととか環境のことなどを勉強して、実験したりはしていましたが、全体でみると、醸造科だけれど座学が中心ではあって。
200人中、家がやっている人は20-30人でした。昔は家がやっている人がほとんどだったのかもしれないけれど・・・僕が行った時にはすでに発酵にわりと興味を持つ人が増えてきて、一般的な人に意外と人気もあった。女性男性も半々くらいでした。
━ では、そこで、醤油造りは学んだ?
城 : 大学だけでは身につきませんでしたね。最初っから醤油を造りたいっていうのがあったから、造るために何が必要かという目線でいたのですが、それにしても造り方とか実践的な事を身につけたかったから、春休みとか長期の休みを利用して、小さな規模の醤油屋さんに研修に行っていました。
最初に組合で見た工場のような大規模ではない、こじんまりとした、醤油屋さんに毎年体験させてもらいに行って、ちょっとずつ醤油造りというものを勉強していきました。
■ もう、やりたい!と決めていたので。
━ 大学を卒業してから糸島に戻るまでのことを伺えますか?
城 : 大学四年の時、研究にどっぷりはまってしまって・・・。就職活動を全くしていなかったのですが、普通に就職するというよりは、僕としてはもう早く醤油造りをやりたいというのがあって。
僕は父親が36歳くらいの時の子だから、周りの友達から比べると親の年齢が少し高かったので、友だちは大学卒業してからも5,6年余裕があったと思うのですが、僕は親が弱ってしまうかもしれないと思っていたので、なるべく早く帰りたいと思っていました。
このまま帰っても全然醤油造りとかできない、醤油造り以上に働いて色々なことを知ることのほうが良さそうだと色々迷いながらも毎日研究に忙しくて、そのまま過ごしていたところ、年明けに父の知り合いの方から醤油メーカーを紹介いただいて、お世話になる事になりました。
紹介されたのは規模的にそこそこ大きく、ビジネス的に成功している岡山の醤油屋さんだったのですが、面接の時に社長さんに「僕、醤油造りを最初からやりたくて」という話をしたところ、「君はわかっていないからそういうことを言っているだけで、商売としてはかなり難しいよ。現実的ではない。それでもどうしてもやりたいのであれば、うちに来るよりも、他のところがいいと思う。」と言って、広島の醤油屋さんを紹介してくれて、一緒に広島に連れて行って頂きました。
━ 商売としては難しいよ、とプロから指摘されても、醤油造りを最初からやるということはブレなかったのですか?
城 : そうですね、もう、やりたい!と決めていたので。その広島の醤油屋さんに勤めました。最初は二年という約束だったのですが一年になりました。僕が嫌になったとか、そういうことではなく、お互いにとって一年くらいが丁度良いのかなという空気感で、途中から僕もまた一年間同じことをやるというよりも東京でビジネススクールに行きたいという気持ちがあって、そうすれば二年で家に戻れるから、そのほうが良いのかな、と思って。
━ 広島で商売としては難しいと言われたいわゆる昔ながらの醤油造りをやって、ご自身の心境は?
城 : それまで大学の時、何軒も醤油屋さんに行っていたけれど冬場の仕込みの時期だけだったので、仕込んだ醤油が一年間でどのように変化していくかということを広島の醤油屋さんで理解できたこと、設備が整えば醤油造りができるかもしれない、という確信にはなりましたが、改めて、必要な設備やスペースもがわかった時に現実的には難しいかな、というのもかなり思いました。
そういうことも知って、自分としてはまだまだ糸島に戻って10年、15年、その先から始められるかな、というイメージではありました。
━ それでも結果として2010年仕込みの醤油を販売しているということは・・・一からの醤油造りをやったわけなのですよね。
後半は実際に醤油造りを復活させるまでを伺います。
インタビュー : 塚本サイコ
文・構成 : 福田響子
写真 : 亀山ののこ
亀山ののこ(かめやまののこ)
東京生まれ。18歳から写真を撮り始め、人物写真を撮ることに夢中になる。
2000年よりフリーフォトグラファーとしてポートレイトを軸に、雑誌、広告、写真集などで活動。
2010年、双子を出産。2011年夏、福岡県へ移住。
3.11以後、原発のない世界を願い、いのちを守りたい意志を表した母と子のポートレイト撮影を始め、2012年秋、写真集「100人の母たち」を南方新社より上梓。
2016年には『9 憲法第9条』を出版し、同タイトルにて全国で写真展や関連イベントを開催中。
他写真集に「The Springtime of Life―ひとりの少女の18歳からの5年間の記録」(2007年、ポイズンエディターズ刊)
3児の母。
福田響子(ふくだきょうこ)
1982年長崎生まれ。2007年福岡へ移住。2008~2014年ビジョナリーカフェスィーツにて勤務し飲食店に携わる。引き続きデイライトキッチンオーガニックとしてリニューアル後、2014~2016年5月まで店長を務める。現在は大好きなヨガを楽しみながら、デイライトキッチンオーガニックでの経験を活かし、心と体が喜ぶ事を意識したヘルシーライフを送っている。
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