福岡県糸島市 ミツル醤油醸造元 城慶典 インタビュー 後半
失ったものを取り戻すという行動は、始めからやることより難しい、精神的なタフさや周囲への理解を得るコミュニケーションスキルが必要となるに違いない・・・いったいどんな困難な道のりが?
勢い余ってりきみぎみに投げかける質問を、ゆる〜りする〜りとかわす城慶典さん、あまりの自然体にすっかり和んだ雰囲気となったロングインタビュー。
家業である醤油屋が高度成長期に手放した醤油造りを、自身のあふれんばかりの想いと工夫のDIY精神で取り戻した若き醤油職人は、思わず目の前で手を合わせてしまいそうになるほどの仏の微笑みが絶えない、心優しくたくましい、愛すべき若人でした。
今回は、糸島のご近所さま繋がりということで、「100人の母たち」「9」で知られるフォトグラファー亀山ののこさんが直々に撮影をしてくださる機会に恵まれました。
日本人の食卓に欠かせない醤油とは何か?失ってしまった一からの醤油造りを復活させるまでのストーリーは究極のエディブル・エデュケーションとしてこれからの人たちに届けたいメッセージです。
前半に続き後半をお届けします!
◼︎ 走りながら考えた、はじめての「醤油造り」
━ 醤油造りを実際にスタートさせるまで、というところを伺えますか?
城 : 広島を離れたあと糸島に戻る前に、東京のフードコーディネーターの養成スクールへ通い、そこから福岡へ行って事業計画のセミナーに参加してみました。そこでは自分がこれからやりたいと思っていることに、どれだけお金が必要で、どれだけ借りてどうやって返済していけばいいかなどの事業計画的なものを課題として毎週行っていました。
そうやって考えていくうちに意外にできるんじゃないかって思うようになって、やれるのだったら早くやった方がいいと思いました。
最初はお金を借りる仕組みも分からなかった。自己資金でどうにかしないといけないと思っていました。ですが、意外にもお金が借りれることを知って親にも相談しました。
3月に糸島の実家に戻ってきて翌年の3月には国民金融公庫から借入していたので一年も経ってないですね。とりあえずは最小限の額を借りて麹室を建て増ししたりして、やり始めました。
━ 醤油の桶や麹室など、醤油作りに必要なものはご自分で描いて進めていったのですか?そういう情報はどうやって得たのですか?
城 : 集めないといけないものはいっぱいあったのでその都度やりながら進めていきました。
当初は麹室が今の半分のスペースしかなかった。最初はその麹室のスペースでどれだけの量の醤油を仕込めるかわからなくて、想像でした。僕のやってる麹の造り方は広島にいた時の醤油造りとはまた違っていて、広島は箱で造るなどではなくもっと合理的な方法だったので、この麹室のスペースでどのくらいの麹ができるのかというのは割り出さずにやり始めました。
━ 本当にもう、一心で!という感じですね。その都度その都度、プランを変えていかなくてはならないところもありましたか?
城 : そうですね、当初の予定とはどんどん変わって、やることも、必要なものも増えていって・・・大工さんもわからないので、お互いに難しかったです。
━ でも、結果、今、醤油は造れているじゃないですか!難しかったとはいえ結果として、醤油を一から造れて、出荷できて、支持も得ている、身を以て「できる」ということを示したじゃないですか?
城 : 塩麹のブームは大きかったですね(笑
その期間、桶も毎年購入したし、材料も毎年仕入れなくてはならないけれど、醤油は三年間は仕入れだけで、収入は無いじゃないですか。
最初は両親と自分は無給でやればどうにかなると思ってやっていたわけなのですが、麹の販売がなければ本当に厳しかったと思います。
━ そうでしたか。大工さんを入れて麹室を作り、桶を探して購入して・・・と、実際醤油造りに至るまでの期間での一番の苦労と、一番の喜びは何でしたか?
城 : 大豆を蒸す釜も本当に探すのが大変で・・・中古というのだけは資金的に決めていたのですが、専門業者さんに聞いて情報を得たのですが、入手できたのが本当に仕込み前のギリギリのタイミングでした。
あとはやはり麹室ですかね。麹室も最終的には自分が学生の時に行った色々な醤油屋さんに「作業スペースはどのくらいでしたっけ?」と質問して教えて頂いたり、道具や機械のメーカーを教えて頂いたり、色々な人の意見を集約していきました。
━ 最終的には人の繋がりですね。
城 : はい。そういう情報以外でも、特に東京でフードコーディネータースクールに通っていた時にも様々な出会いがあって、その時に知り合った方々が今の自分のベースになっています。
◼ 「こういうことでもできるんだ」というモデルにはなるかもしれない。
━ 城さんは、ブログなどで赤裸々に失敗も含まれる実体験を綴ってますよね?
城 : 僕は自分のブログの最初に「うちは今は醤油を自分のところで造っていない、けれども将来、自分のところでもまたやりたい」というのを書いています。それは、なんというのかな、後出しジャンケンのような感じでやりはじめてから言うのは嫌だな、せこいな、と思ったので。
自分の決意として、帰ってきた時に「自分は将来やりたい」と、思うままのことを書いてきました。
━ 一度醤油造りをやめてしまった醤油屋さんの子どもたちが、城さんの体験記を見て、「自分もやってみよう」という気持ちを抱くように思います。そういうメッセージになっていると思いますか?
城 : そこまでではないですが、将来的にはそうしたいと思う人が増えていくと思います。確かにそういう流れはある。同業の方の見学も多いです。
歳が近い人は感覚が同じなんですよね。この前も広島の大学生でやはり家が醤油屋で、自分が継ぐとしたら最初から醤油造りをやりたいという話はありました。そういう人は確かにいます。
うちは最低限、ローテクの極みみたいなものなので、ブログで発信していることで「こういうことでもできるんだ」というモデルにはなるかもしれませんね。
━ 自分には真似できないと思われてしまうよりも、次の世代の人たちに伝わりやすいのでしょうね。多くの若者に勇気を与えていると思いますよ。
◼︎ ぶっつけ本番。2010年最初の仕込み
━ 設備を作りながら同時に最初の醤油仕込みのオペレーションも考えていたのですか?
城 : いや、それはもうぶっつけ本番でした。一番最初の仕込みの時には広島のご主人が来てくれて、それが本当に助かって・・・その方がいらっしゃらなかったら不可能でした。はじめてなので応用力が無いんですよね。現場の醤油造りの経験も少ないし、まっさらなところからやったから、やってみたら、あれ?やっぱりこれはこうだったんだ・・・とか色々あって。
けれども広島のご主人は大学を出てから醤油造りをずっとやってこられている方だし、醤油業界が変わっていった昔の手造りから機械化していく一連のところを見てこられているので情報量も蓄えられておられて、こうだったらこうしよう、とか、アドヴァイスを頂くことができて本当に助かりました。
━ それが2010年のことですよね。2010年の仕込みが一番最初ですよね?
城 : 2010年の11月に仕込んだ醤油が最初ですね。
━ そう考えると本当に最近のことですよね、まだ6年目。2010年に最初の醤油の仕込みをやりきった時の気持ちはまだ鮮明ですか?
城 : そうですね、なんか、こう、浸っている間もなくバタバタしていましたね。
━ ご家族の反応はいかがでしたか?
城 : 家族にとっても初めての経験なので、きつい・・・というのは体力的にというより知らないことをやらなくてはいけない、という意味で大変だったとは思いますね。
◼︎ 自分がやりたいことしかやらない。覚悟をしてやらないと、わざわざここまでやった意味が無い。
━ 醤油造りも含めて醤油職人としての城さんの人生、これは譲れない、ということはありますか?
城 : 大きな部分で言うと、自分がやりたいことしかやらないと決めています。
自分が食べたいもの、自分がやりたいことしかやらない。
━ それで経済を回せるというのは理想ではありますよね?
城 : 商品にする時、価格設定ではすごく悩みました。当然、高いと売れなくて売れないと桶も開かないから次の仕込みもできないとわかっていたけれど、それでも醤油造りをやってわかったことは、なぜ国産の小麦と大豆で手造りのやり方でできないのか、というとそれは結局、見合う価格では売れないから、ということだと思うのですよね。
高いと醤油なのにこの値段?と思うのも理解できます。僕も実際、このくらいかな、という値段にしようとしていた時もありました。ただ結局、それだと、それは一つのパフォーマンスというか、うち、こういうものをやっていますよ、ということにしかならない。見合う値段をつけて、覚悟をしてそれでもやらないと、わざわざここまでやった意味が無いと、そう思っています。
極端な話、半分の値段にするとなると、それだけ利益が薄くなって、それだけたくさん造らなくてはならなくなる。そうすると、たくさん造るための効率を考えなくてはならなくなって、結局、昔辿った道と同じところをめぐってしまう。もちろん買いやすい値段にしたいという気持ちもありますので、将来的にはもっと工夫して量も造れるようにしたいし、麹のロットを大きくしてコストを下げるなどもしたいけれども、ただ、一つ、それだけ醤油造りというのは手間も時間もかかるものだ、という意思表示はしなくてはならないとも思っています。醤油って安いものというイメージに対して、ね。
━ それって消費者側でいうとライフスタイル、生き方、にも通じますよね。何を選ぶのか、何に対価を支払うのか、どんな暮らしをするのか、という一人一人の選択にかかっていると思うのですが、今、一方で気づいて行動しようという人々も増えていて、特に若い世代に多いと感じます、城さんもその一人ですよね、城さんそのものが希望、とも言えます。最後に、醤油、食文化に対してのこれからの希望について、伺えますか?
城 : 結局、いろいろな人がいていろいろな価値観があって良いわけですから、その中で少し関心を持ってもらえたり、究極のことを言えば、知り合いの中だけでやっていけるのが理想です。
冬場は、気が合う人同士でワークショップをやっていて、数としては少ないけれど、そういった人と人との繋がりでやっていけたらと思います。
ミツル醤油醸造元
福岡県糸島市二丈深江925-2
www.mitsuru-shoyu.com
インタビュー : 塚本サイコ
文・構成 : 福田響子
写真 : 亀山ののこ
亀山ののこ(かめやまののこ)
東京生まれ。18歳から写真を撮り始め、人物写真を撮ることに夢中になる。
2000年よりフリーフォトグラファーとしてポートレイトを軸に、雑誌、広告、写真集などで活動。
2010年、双子を出産。2011年夏、福岡県へ移住。
3.11以後、原発のない世界を願い、いのちを守りたい意志を表した母と子のポートレイト撮影を始め、2012年秋、写真集「100人の母たち」を南方新社より上梓。
2016年には『9 憲法第9条』を出版し、同タイトルにて全国で写真展や関連イベントを開催中。
他写真集に「The Springtime of Life―ひとりの少女の18歳からの5年間の記録」(2007年、ポイズンエディターズ刊)
3児の母。
福田響子(ふくだきょうこ)
1982年長崎生まれ。2007年福岡へ移住。2008~2014年ビジョナリーカフェスィーツにて勤務し飲食店に携わる。引き続きデイライトキッチンオーガニックとしてリニューアル後、2014~2016年5月まで店長を務める。現在は大好きなヨガを楽しみながら、デイライトキッチンオーガニックでの経験を活かし、心と体が喜ぶ事を意識したヘルシーライフを送っている。
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