
中学生のクラス通信から考える、魂と身体と心の話
中学生の娘のクラス通信に、担任の先生からのこんなお話が載っていました。
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「赤い花と白い花」
昔むかし、あるところに、赤い花と白い花が咲いていました。
赤い花も白い花もどちらも大変美しい花でした。
どちらもそれぞれに、りっぱに根を張り、毎日お日様に向かって一生懸命伸びていました。
赤い花は白い花を、そして白い花は赤い花を、
それぞれ尊敬し、あんなふうに美しく咲きたいものだとあこがれ、
相手の花にふさわしいように自分も努力をしなければ…と一生懸命でした。
だからこそ、どちらもますます美しい花でいられたのでした。
ある日、赤い花はふと考えました。
「根を張る努力は苦しいなぁ。苦労ばっかり多くて。
ちっとも、あのすてきな白い花のそばに近づけるようには思えないな。
ぼくは、白い花に近づきたいんだ。
素敵な白い花と仲良くなりたいんだ。」
そう考えた赤い花は、その日からもう、根を伸ばす努力をやめ、ひたすらその細い茎を白い花のほうに向け始めました。
中略
始めの2.3日は、赤い花はほんの少し、白い花に近づいたように思いました。
ところがどうでしょう。
4日目から赤い花の葉はみるみるしおれ、あんなに鮮やかだった美しい赤い色も、なんだかぼんやりとくすんできたのです。
1週間目になるとすっかりやせ細ってしまった赤い花は、もうその花をすっくりと支えていることが出来ず、
とうとう地面の上に、むなしく、しおれてしまっていました。
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「苦しい努力をしなくてはならない」
というお話ではなく。
白い花は、自分のあこがれる対象ともとれますが、
もう一人いる自分のなかの自分という風にもとれます。
こうしたい、ああなりたい
という自分の中から湧き上がる
なりたい自分、見たい風景
美しい花を咲かせたいと願う魂の喜び
その願いをかなえようとする身体
物質である自分が実際に感じる現実での喜び
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赤い花は白い花よりも美しさが劣っていたのでしょうか
わたしには、赤い花がひたむきに繰り返しているそのエネルギーが
とても美しく
きっと花にそれが現れていて、その姿はとても美しいものなのだろうと思えます。
白い花が、赤い花がとても美しいって伝えてあげられたら。
赤い花が白い花と根っこでつながっている一つの花なのだということがわかっていたら。
そんな風にこのお話を書き変えてみたいな、と思いました。
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